人と会話するのが苦手です、と書けば、コミュニケーション能力の欠如を表現するにとどまる。
もう少し詳しく書く。
初対面の人と話すことは緊張する。仕事で新しい客が来ると、緊張はするけれど少し違う。
人と話す行為に緊張しているわけではなく、間違えないようにしようとか、ちゃんと対応しようと言った意味で緊張するのだ。
べつに人と話すことは緊張しない。対人関係がめちゃくちゃ苦手でもない。いつも新しい人と会うのは、ちょっと怖いことでもあるけど。
仕事先や知らない人と話をするのは、そんなに得意ではないけれど、さほど苦手意識を持っているつもりもない。天気の話とか、分かりやすい表面の薄皮一枚目の話をすれば良いので。
話すのは好きな方だし、得意な方だ。友達と話すのも苦手ではない。
ただ、生来のしゃべりたがりが顔を出すから、相手の話を聞かずにしゃべり続ける。友だちの話よりも、思いついたボケをどうしても言いたくなって、先に口走る。
この悪癖がなければ、僕はきっと「話し上手は聞き上手」の通り人を惹きつける魅力あふれる男になって、僕の友達は、今頃倍になって、恋人の一人や二人はいたことだろう。石田純一も言っていた「女性の話を聞くたびにベッドに近づく」って。私は、6億回分のそのような機会を逃している。
人の話を聞くのが苦手だ。もっと言うとあんまり好きじゃない。むず痒い会話が嫌いだ。面白くないから。
会話はいつでも新鮮に耳障りのよく、テンポ感があって面白いものがいい、とずっと考えていた。テレビのバラエティやラジオ語りに傾倒した学生期を超えたけれど、癖はなかなか抜けない。
どうやら、違うらしい。
相手に話を聞くと言う姿勢が大事なのだと感じた。
人の話になんて返事をすれば良いか、分からない。思ったことを話せば良いらしい。
すると、私は自分の話ばかりになる。そもそも最初から相手に話させる"隙"なぞ見せはしない。
学生の頃は、自分にとっては重大な、けれど他人にとっては道端に転がる石ころみたいな失恋をして、よく分からなくなって、カウンセラーの元へ通っていた。
カウンセリングは自分の話をするだけなので、毎回待ち時間を使い切る覚悟で話し続けていた。カウンセラーは、よく人の話を聞いていたと思う。話を聞く行為は訓練された技術なんだな、と振り返って思う。
最近「話している側は、そんなに何も求めていないこと」を考えて、返事が適当になった。
この適当さ、と言うのは、自分の価値判断を入れないという適当さである。
仕事の愚痴に対して、求めてもいないアドバイスをするような、会話の節々に、自分が何か相手にしてあげようという考えはおこがましいのだ。お節介だ。
「居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書」という本の中で、
「抱える」という表現がある。
相手の言葉を抱える、何も言わない、うん、と聞いて、それを持つ。
それを実際に試してみようと思ったが、案外難しい。
なんと言って良いか分からないのだ。
そもそも口を閉じるのが難しい。
人の話を聞くことが難しい。
人の話に答えを出すのは難しい。
目の前の人が、欲しい言葉はなんだ? 慰め? 怒り? 共感? どれなんだ、難しい。
……難しい。
うーん、難しい……!
それらが全部一緒くたになって、最近、私は返事をするときに、「うーん、難しいねー」と返事をするようになった。
それがサボりだと指摘を受けている。ちゃんと会話をしろ、と誹られている。
だって難しいんだもの。
という話です。
たまに、相手の会話に、お節介だとわかって手を出す時もあるけれど、その方法と結果は、個別具体的な判断になるよね。