灰じょんのブログ

灰じょんが10代の記念にブログを書きました。すでに20歳を超えたので、今は思ったことを書いてます。何卒よろしくお願いします。

あの人

働き始めて半年が経過しました。

少しずつなじみはじめた部分と全然慣れない部分がありまして、まだまだ何も分からない。



この前の夢の話をしましょう。

この前、夢にある方が出てきまして、1日のふとした間にずっとその人のことばかり思い出していました。

どういう仲だったのかうまく言えないし、別に恋愛の関係でもなかったし,肉体的な関係もなかった。

でも、振り返れば,なんつーか、好きだったのかなぁ〜って。

あの時自分は,本当にその人のことが好きだったのかどうかよく分かってなかったし、今もよくわからないままなんですよね。


考えれば考えるほど,その人のことなんて何も分からないことも思い出しました。



ただ、もう会うことはない、むしろ「会えないんだろうな」とか「会ってはいけない」くらいに捉えております。なんでそう考えるのかは説明が難しいけど、それは説明するほどのものでもないです。

でも、夢で見て、夢の中で「触れたい」と思いました。あら、恋かもしれません。寂しいだけかもしれません。



その人のことに関して、言葉を持って語ると「いてくれてよかった」とか「ありがとうしか思いつかない」とかちょっと恋愛の言葉を借りないと表現できない気がして。それに気づいた自分もなんか、恋愛と決めつけるには繊細なものを切り捨てすぎる気もして。



うーーーーーんーーーーー。



という時期も過ごしたこともあったと記憶されるのです。

だけど、その人から「もうそういう感情だったとしても、そうじゃなかったとしても良いんじゃないですか?(意訳)」と言われた気もして、もうそれでいいんだな、と思った。

というか、もうなんて言われたか覚えてない。



遠く遠くに眠る、だけどひょっこり表にやってくる思い出です。



夢は見ていても「夢を見ていた」感覚だけが残って、何も思い出せない。起きた瞬間に思い出す夢も、知らない間に再構成されて、本当に見ていたことでもない。都合のいいように書き換えられる。

ところがどっこい。こうして、現実世界ですら、自分の記憶も曖昧になっていく。自分の都合がいいように、ストーリー仕立ての記憶は、細部が嘘になっていく。

思い出せば,様々な記憶があるけど、よくよく考えると事実と噛み合わない。それが記憶なのかもしれないです。



でも、そういう記憶がなんかあったっていいじゃない。都合のいい記憶を抱えて生きることが今を生きる上で必要なんですもの。



と開き直りました。今。



やれたかも委員会、というゲストがやれなかった(性的な行為が出来なかった)あの日のエピソードを語って、審査員3人がやれた、もしくはやれたとはいえない、に判定するとかWeb漫画において、最も話が長く、エモい回「童貞からの長い手紙」がありまして。


やれたかも委員会 case024「童貞からの長い手紙1」|吉田貴司 #note https://note.com/yoshidatakashi3/n/na63c34ee5adc


最後に塾長が言うセリフが

「童貞讃歌 確かにそれは偏ってるかもしれない 身勝手な憧れの 押し付けかもしれない」

「でも…」

「偏っていないと生き抜けない あの頃があった」


このセリフがいいセリフだと思うんすよね。

自分も童貞の童貞で、やれたと言えるエピソードなんて持ち合わせていないけれど、こうやって一人喫茶店でしこしこ、そういう過去に浸りながら、はてなブログ書いててもいい気がしてくる。


こうやって、また年月をやりくりするのかもしれない。

また会いたい、と思ったけど、失恋を引きずるのも良くないな、とも思う。

……やっぱりあれは恋と呼べたのか?