梅雨に入った、と発表があってから、また急に寒くなった。
寒くなったといっても、今が6月であれば順当な気温だと思われる。僕はとても順当な気温だと思えなかった。理由は梅雨までが非常に暑かったからだ。私の中ではもう『夏』だ! と決めてしまったので、このようにちゃんと梅雨がやって来られると寒い。もう一枚増やそうかしら、なんて考える。
shinkulock-john.hatenablog.com
このころは夏だと思ってました。
「このくだらない日常は、毎日毎日同じことの繰り返し」という概念は、結構社会や人々の心にがっしりと根を張っていると思う。ラノベの主人公が達観した気分で言ってそう。実際は達観ではなく、ただ、生意気になっているだけだが。
「くだらない日常」
「変わらない毎日」
最近よく考える。本当にそれが存在するのか?
本当に同じ毎日なのか?
同じと感じているのは、僕たち側の受け取り方がちょっと何か原因があるのかもしれない。
もう一つ。最初の話に戻ろう。
梅雨は季節の変わり目でもあるし、梅雨自体が季節だ。今の日本は、春夏秋冬だと言われるが、もう梅雨夏冬ぐらいな感じもする。
季節の話題は、会話の始まりだけれど、私たちは常に季節を意識しているのだろうか。
私たちは季節に合わせて服を着る。しかし、その機会はどのくらい持ち合わせているだろうか。制服は私たちから季節を奪ってないだろうか?
服は機能性とともにデザイン性もあるし、それが記号として社会的な作用を持つ。要は、私はこんな人間ですよ、とか制服で現在の状態が仕事であることを示したりとか。
空調は私たちから季節を奪った気がする。
奪ったとは被害者みたいだな。
私たちは空調や服装の技術で、季節から解放される活動を手に入れた、ぐらいにしておこう。多分そうなんだろう。季節が無くなって、いつも同じ気温の方が、人間の活動は活発というか、安定して活発なはずだ。
大きな社会には、なんというかこういうルールをみんなに見せている感じがする。でも、それは万全じゃなくて、幻の装置で。
政治も世の中も、何かビジョンのようなものを私たちに見せている。何か求めている。「まともになれ」とか「はたらけ」とか「家族を大事にしろ」とか「刑法」とか。
でも、それは実際に機能してる事よりも、それが幻想であり、動かない装置であっても、それを他人にイメージさせることができる方が大事なんだろうなー、と思った。
なんつうか幻想なんだよな。
数年前にたまたま見かけたジャンプで連載してた「めだかボックス」で、めだかのお父さんが出てくるシーンがありまして。
「世の中は『すごい』よりも『すごそう』が受け入れられ、『楽しい』よりも『楽しそう』が大事」みたいなセリフを言ってた気がする。
当時も今も、めだかボックスは読んだことないから、すげー適当な記憶なんだけど、なんか、そうなんだよな〜って思い出した。