フォローしている友達がみんな結構更新していたので、私も何か更新しようと思う。
としたいが、今思っていることや考えていることを書くのはいったん控えようかな、書こうかな、と迷っている。
頭の中にある、ぼやっとしたことや「あっ、世界はこういうことなのかな?」みたいなぼやっとしたことが、すごく揺らぎの中でぼやっとしているのだ。
ぼやっとしたまま書く。
別に俺は、何か人に行為をできるような技術も持ってないし、医療従事者でもない。でも、今はなんとなく「ケアってなんだろう」「支援ってなんだろう」みたいなことをぼやっとしている。
その前に今「包括」とか「排除」とか「なにもしない」とか、俺の中だけでホットなトピックがある。たまにそれが、ネットの他の人(本当に医療に携わっている人のツイッター)のそれと重なったりする。このまえ、ノートを整理していて、三年前に履修した一般教養の心理学でそのようなことがちょろっとだけ書いてあって「この話か! 俺はこの話を追っていたのかっ」ととてもはっと驚いた。
だからといって、ネットのまま現実を見てはいけないんじゃないか、とか思ったりする。自分で考えないといけないのかもしれない。
自分で必死に考えても、自分の思考能力には低い天井がある。
だから、その前に、過去の天才が残した言葉を読んで学ばないといけないんじゃないかと思ったりする。巨人の肩に乗るってやつだ。
「もし私が遠くまで見えたとしたら、それは巨人の肩に乗ったからです」という言葉ある通りに自分だけの力では到達できないことも、過去をヒントにすれば手に届くかもしれない。
ちなみにこれは、フランスのベルナールという人が言った事らしい。(中野徹『エピジェネティクス ―新しい生命像をえがく』 2014 岩波新書 p20)
(ちなみに私はこの本、途中で返却してしまいました。高校の生物が出てきて記憶がわっほい!ってなってしまったので。就活落ち着いたらまた読みます……)
それはそれで結構頭の使うことで、なかなか疲れる。
もしかしたら、僕のちっぽけなプライドなんだろうけど「知らない」ことを覚えるのが結構きつい。知らないと意識するのが嫌なのかもしれない。他に見るところがあって「知らない」うちに「知っていった」とかならスムーズなんだけど……。
ゲームで言うと、いきなり解析で攻撃技の設定値を調べるような感じが嫌っていうか、まずは手で動かして、とにかくテキトーにやりたいじゃないの。
脱線。
ミシェル・フーコーを読まなければいけないと思っている。
そろそろ俺の人生においてこいつを読まないといけないんじゃないかと。他人に説明できるようなものじゃないが、俺にとってはなんか意味がある行為。
もちろんこれが卒論のテーマになってくるだろう。
「狂気」って「包括」と「排除」の話を言葉を変えているだけかもしれないな、と思った。『狂気の歴史』はこれから読み進めるんだけど。
ああいう本を読むと、自分の普段の読癖が分かって萎える。文字が横滑りして意味がちゃんと入ってこない。悲しい。読んだ気にならない。悲しい。もしくは読んだ気になっているだけである。
ミシェル・フーコーにおいてもうひとつ「ジェンダー」と「セックス」がある。
これは俺がまだまだ入り口にすら立ってない分野だが、そこもやんないとな~と思っている。
うーん、何もわからないし、何か言うとその言葉が誰かを傷つけてしまうような気がする。でもそこまで気にしていられないって気もする。私はただ沈黙しているのが良いのかもしれない。
そんなことを考えている割には、こうやって書かないと気持ちの整理や思考の整理ができなかったり、誰かに読んで欲しいと思っていたりする。
他人の時間を奪ってこそ成り立つおしゃべり癖は、僕のどうしようもない罪なんだと思う。
書かないといった割には、そこそこ書いてしまった。