灰じょんのブログ

灰じょんが10代の記念にブログを書きました。すでに20歳を超えたので、今は思ったことを書いてます。何卒よろしくお願いします。

断面的な語りをする。話が変わるがを繰り返す。

 自分の中で思いついた言葉が、以前誰かの言葉だったことはよくある。

 というよりもそういった経験しかない。

 一年くらい前に、誰かが言ったことを、今更持ち出して、自分の言葉にしたところで、誰がその小狡さに気づくんだろうか。

 人が何かを学ぶときは、原理的には同じはずである。真似をして、学んで、少しずつ自分のものにする。

 出されたものが、書き手にとって消化不良か、元ネタが分からなく薄く刻まれて、いろんなものと一緒くたに煮込まれただけで、読み手は怒るか怒らないかを決めた。

 

 話が変わるが、人のエピソードを勝手に話にする時、私はその人を金太郎飴みたいに切って、偏見で語る。よく偏見を使う。

 すごく滑稽な話をしたくとも、相手がいる以上話せないことがあることを、私は少し前に知った。

 話が変わるが、私はそれをよく忘れる。

 

 

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 カクヨムのコンテストに応募する小説の話。

 応募できる作品が書けませんでした。書けない理由は書かなかったからです。

 書けない理由は手を動かさなかったから、それ以上の理由はあるのか?

 答えはある。書けない理由の背景には、また別の理由があるから。ゲームが好きだから、時間がないから。時間が無いと思い込んでるから。好きじゃ無いから。本当は心の奥底で、まともな人間は、小説とか、エッセイとか、自分から血を出すような文章を書かないんじゃ無いの? と考えてるから。

 

 話が変わるが、職場で他部署の上司から、私に割り振られた文書を早く書くように、と指摘を受けた。

「とりあえず手を動かしましょうって話なんですよ」と、訥々とした口調で、大の大人に諭された。

 私は、すんませんと謝った。まだ文章は書き上がらない。それは、私が他の仕事に追われていたり、時間がなかったり、仕事を好きじゃなかったりなどするが、それはあくまで背景で、理由として足らない気がした。

 まともな人間は、文章を書くらしい。

 

 話が変わるが、社会人3年目の私は、怒られる時の姿勢が分からない。

 普段、声が高く、勢いと子供じみた頷きをするからか、怒られる時のしゅん……とした感じが再現できない。

 謝ることはよくするのだが。

 ちなみに、最近は謝罪のバーゲンセールみたいになっている。

 

 

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 最近気づいたことがある。

 私は、どうやら人に馬鹿にされることが嫌いらしい。馬鹿にされると感じる瞬間に、虎の尾を踏まれた気分になっている。

 なぜか、何が理由か忘れたけど、今年の11月にふと私はそう思うに至った。ようやく気づいた。

 

 話が変わるが、物事全てに、理由はあるけど、あれは理由というよりも、ドミノを倒せば、何色のドミノでもいいように、倒れたドミノがどんな絵を描いても、ドミノ自体にマクロの視点がないように、順番があるだけな気がした。

 

 そんな私は、上司から怒られる時に、馬鹿にされることを察知して、もしくは過剰に敏感になって、むすっとした顔をする。

 

 

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 会社から定時で帰るように決められた水曜日の帰り、スーパーに出かけた。

 スーパーの食材も、物価が上がっているらしい。賃金も上がらないといけないんだろうな、と自分のことのような、他人事のような気持ちで考えた。

 好き嫌いをするだけで、生存コストが上がる冬。一人暮らし3年目の冬、初めて大根を買った。

 今日は鍋にしよう、と思って玉ねぎを切り始めたら、玉ねぎが滑って、包丁で薬指の表面を2ミリくらい(いや、思えば1ミリくらいかな)切った。

 この前、おいしい出汁をもらったので、その出汁で、煮込んだ。

 できた大根はよく煮込んだけど、少しだけ辛かった。

 出汁も、正直薄味だった。この出汁をくれた人は、薄味が好きなのかしら。

 その人がくれた計量スプーンで、醤油小さじ1杯を足したけど、味は薄かった。

 人からたくさん貰っておいて、機嫌が悪くなった私は「頼んだわけでもないのに」と画面越しに愚痴をこぼした。

 お節介をくれた人に、お節介だからと怒る私は、本当に子供っぽい。

 

 相手がくれるプレゼントに対し、まるで自分の生活が何にも足りていないみたいじゃないか、馬鹿にしてるのか、と一人怒った。

 私は馬鹿にされるのが嫌いなんだと思う。

 

 

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 テレビのニュースで過労死シンポジウムを取り扱っていた。

 過労死で娘を亡くされたご遺族の方が、とても苦しそうな語り口で、聞き手に呼びかけていた。

 その方は別の県が主催したシンポジウムにも出ていた。私はそちらに参加して、お話を生で聞いたのだった。

 9年前の出来事を、目の前にその瞬間があるかのように語る方法は、もちろん、本人にとってはとても辛いことだと思うけど、それは語るたびに言葉が言葉として力を持って、その人を傷つけてしまってるんじゃないだろうか、と思った。

 念の為に言うが、私は、その人に「辛いことは忘れて前を向いて生きてほしい」なんて、思ってもみないことを言うつもりは無い。

 ただ、止められた時を語り続けるのは、その度に辛いのではないだろうか。

 

 

 話が変わるが、これは私がオリジナルで考えたものではない。

 岸政彦さんの「断片的なものの社会学」と言う本の「物語の外から」という章の中で、語りに突き動かされている人を扱っている。とても優しい眼差しで。

 私はその本を読んだから、今回の講演を見た時に考えたにすぎない。

 私はその本を読んだ上で、こう言った文章を書いたにすぎない。

 

 私は、自分の話と人の話を混ぜて話した。

 そのことを私はよく忘れる。

 私の口から語られることが、消化不良な元ネタなのか、うまく溶け込んだ元ネタなのか。

 読み手は怒るか怒らないかを、決めることができる。