灰じょんのブログ

灰じょんが10代の記念にブログを書きました。すでに20歳も後半戦です。思ったことを書いてます。読んでね

思想が強い話を並べる

 思想が強い話を並べる。

 これは僕の考えだけど、読む方々にこれを押し付けるわけではない、ただなんとなく理解してもらえたらいいと思う。共感は別にいい。

 

1、学ぶことを避けたい気持ちがある。

 学ぶことをまねぶことのなまりで、そもそも真似ることで…とかいう話はどうでもよくて、私が言いたいのは、何か新しいことを知る瞬間は、自分が何を知るのか分からないのである。

 新しい本を読むことを選ぶことはできるが、どの新しい知識を手に入るか分からない。そもそも何を学ぶか分かりきってるなら、それは学んでいない。知らないことを知ることに意味があり、そもそも私は何を知らないのかすら知らないのだ。

 だからか、新しいことを勉強する時には、いわゆるリスクがある。何を学ぶか分からないので、それを知った自分がどのように変化してしまうのかも予測できないのである。

 本を読むことで、自分は何かが変容してしまう可能性があり、もしかしたら、自分の生き方にすら関わるくらい大きな変動を起こしてしまうかも知れない。

 そういう話を高校ぐらいで読んでから、本を読むことに関して、うっすら忌避感を感じるようになった。勉強したいと言いつつ、原理的には勉強は怖いものなんだと思う。

 ま、これには反論もある。新しいことを取り込んで、古いことを捨てていく新陳代謝は否定的なものではないし、別に本じゃないところからだって、人間は何かの影響を受けて変化してしまうおそれがあるので、いちいち勉強を嫌いになる理由はない。それは単に私が逃げているだけなんだと思う。

 

 

2、多様性

 多様性とかを叫ぶ人に限って、顔がいいしおっぱいがでかい気がする。

 地方移住でも全然楽しいとかいう女の顔って、結構いい顔してる。普通の顔は都会から地方に逃げてない。

 私はおちんちんの奴隷なので、綺麗でえっちなお姉さんが言うことを大体信じていきたい。

 でも、顔がいいだけの女って考えさせられることなく人生をスムーズに生きてるから、私と話が合わないかもしれない。

 ブサイクが言っても「ブスがなんか言ってる」としか思えない自分の中に、非常に差別的な意識があると感じる。無くしたいと思う。無くならないと思う。

 馬鹿が「学力なんか意味がない」と言っても、私は「勉強できなかったやつの言い訳」としか思えないけど、賢い人が「学力は、現代社会で許されている差別だ」という意見を聞くと、私は「なるほど、学力は差別なんだな」と妙に響いて感じ入る。

 私は人の話を聞く時に内容を聞かない。話す人間と、話すスジが通ってるかどうか見てる気がする。

 こういう差別意識はよくない。

 ただ、こうして迷っておけば、とりあえずの正解なんだと思えるが、それは根本的な答えになっていないし、「回答しないことが回答」なのは、大人のふりをしているが、子供が大人の真似をする時に一番最初にやることだ。

 私は、私の意思と選択を持って、すべての社会的な事項に答えを出したいと思った。でも、それは無理だと思う。

 古代ローマは民主主義の完成系みたいな話を聞いたことがあるような、いやネットで見ただけかもしれないし、今私が思いついたものかも知らない。

 でも、あれって、成人男性だけが「人間」だったから政治がしやすかっただけで、女と子供と外国人奴隷は、そもそも「人間」として扱ってなかったという話がある。つまり、成人男性はポリスポリスと叫びながら、生活を丸投げして政治だけやってたら良かったわけです。

 今の世の中に生きる、一人の人間の中に、「生活」と「労働」と「政治」がまとめて入れられており、社会設計がなされていると思う。

 とてもやっていけるものではないと思う。全てを平等に持っていくことは人権意識の高揚なので、その歴史的な背景とその反省から生まれる試みはとても大事だと思うけど、やっぱり全てこなせるキャパ無いよなー、俺にはキャパオーバーなんだと思う。

 でも、何かを諦めるほどでもないし、適当に選挙だけ行って公民権を行使して終わる。

 

3、意思

 人間には自由意志がない、と少し難しい本を読んだ時に思って、それを使っているが、自由意志ってなんなんだ。分からない。

 

4、ジェンダー論で語られる「そもそも人間の本能なんだから」を聞いて、もう聞く気がない。

 ジェンダー論がネットで盛んだし、今でもよく語られる。

 でも、その人の話は別に学術だってないし、その人の経験で話してるにすぎないから、正直聞いてて興味が湧いてこない。

 特に、「そもそも人間の本能として、女と男は求め合うもので、つがいで一つ」とかいう話出しをされると返す言葉が無い。生物学的決定論者に対して「『生物の本能に基づく判断をしよう』という社会的な意思決定でしょ」と一旦集結してる話なんだけど、反論したい気持ちになるが、うまく説得できそうにないからしない。むしろ揉めそう。

 私のような不勉強で、卒論も本の調べ学習で済ませた学部生では、ジェンダーを語ることはやめた方がいい。

 結論は、周りの友達や職場の人が「ぼくが考えたさいきょうのジェンダー論」を叫びだしたら、一個人の意見として聞くに留めておくのがいいと思う。ジャンルは、副業で⚪︎千万円稼いだYouTube動画みたいなものだ。人生の経験として聞くには楽しいけど、再現性も無いし、おすし。🍣

 

5、オリジナルが無い。

 私の文書も、私の言葉も私が考えたことも、全部オリジナルじゃ無い。人間に自由意志がないという理論は、言い換えれば「意思という感覚は過去の忘却によって生まれる、勘違いみたいなもの」らしくて、つまりは、元ネタを忘れて、俺が思いついたオリジナルの作品だー! みたいに言い張ってるやつのことらしい。

 私のこう言った考えも、別に私固有のものではないので、いつか変わってしまうし、わたしはなんのオリジナルでもないのだ。

 AI絵師の問題になった時に、この話に触れてる人がいて、私は妙に納得した。

 

 

6、感性の死

 この前、友達の車に乗っていたら、バリバリ新しい曲が流れていた。

 俺は最近新しい曲を聞かなくなったし、ディグることが無い。オタクの自覚はあるのに、ハマっている趣味が無い。最近のアニメも何も見てないし、ドラマを見てないし、演劇に行く趣味も無いし、2.3年ろくに映画館に行ってなかった。

 今の俺は何から好奇心を摂取しているんだ? 今の俺は、どこで感性を磨いているんだ…?

 そう考えた5月のゴールデンウィークの最終日、一つの結論に達した。「もう、俺の感性は死んでいくだけなんじゃないだろか。すでに感性の死を迎えたのかもしれない」と。

 これから緩やかに感性を失い、同時に、多少のことで揺るがない精神性を手に入れていく。きっと社会的にいるモブおじに馴染むんじゃないかと思う。

 

 

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