灰じょんのブログ

灰じょんが10代の記念にブログを書きました。すでに20歳も後半戦です。思ったことを書いてます。読んでね

現実との距離を埋めるもの


私は普段から妄想爆発マンである。独り言をよく呟き、頭の中のイメージの役になりきる。私はさまざまな状況を想像する。最近はとにかく偉い人になりたいらしい。俺は天才なので……。

しょせんもしょせん、それは妄想なので、度々自覚する。あと誰かに見られるとまずいと思うので、人がいる時は黙る。そもそもおしゃべりなのでそれも相まって妄想は加速する。


私の頭の中は私にすら理解できないブラックボックスである。現実で何かを見たり、聴いたりすると、頭の中でそれが全然違う形で出てくる。その出てきたものをじっととらえて、自分の中で意味づけや再解釈をする。めんどくさい手順だが、知らないものが目の前に現れた時はこの方法をベターなものとしてよくやる。


おそらくだが、私は、ユング心理学でいうところの連想法が得意なようだ。とある話に別の思い付きを結びつけ、軽々と話と話を飛び移る。


話したいテーマの中に雑談が現れて、雑談の中に雑談がまた生まれて、話と話は舞い踊る。私は言葉遊びを行い、なんとか笑ってもらおうと苦心する。私が雑談好きな理由も多分ここら辺にある。



果たして、こんなイメージをばりばりしている私は、現実をちゃんと見つめることができるのだろうか。


これは哲学ではないよ。もっと気楽で、素直な感想だよ。

皆様も適当に考えて欲しい。できれば僕の話を聞いて欲しいだけかもしれない。

哲学を勉強しているわけではないので、多分偉い哲学者はここら辺のことを考えてると思う。それより劣った、練られていない私の持論だ。それでも話をする。だって話がしたいから。



私は現実をちゃんと見つめられないんじゃないか? 自分の中で自分の都合のいいように現実を掴んで、それなりの意味を求めるんじゃないかな?


サイコロの目に意味を求めるし、運に頼ってガチャを引くし、宝くじも買う。番号が当選番号と掠ると急激に惜しい気分になる。そこに科学的で合理的で知性的な私など居ない。そもそも私は知性的ではない。



小池龍之介さんの「考えない練習」という本がある。

その中に『思考病』という概念がある。要は我々が考えすぎているということである。

人は無意識に考えすぎてますよ、雑念に囚われてまくってますよ、みたいなことを言っている。一回だけ言われたことを頭の中で何十回も再生してしまって、言葉以上に傷ついてしまったり、相手の言葉に下手に突っかかってしまうとか。


そして、大事なことは『思考病』によって、無意識に考えてしまうことで現実に向かい合う時間が減ってしまって、相対的にその人の体感時間が短くなることである。

時の流れが速くなってしまう、ということだ。


個人的には極論というか、証拠はない話なんだけど、嘘だと否定するには説得力があるなぁ、と感じた。



この本によると、対処法は「考えない」ことだ、と言っていて、要は光や音や匂いや皮膚の感覚にだけ集中してみようと続く。自分の考えていることを把握して「あ、〇〇について考えてしまっていた」ということに気付き、クリアな現実をみよう、みたいな。座禅や瞑想と似てるのかな?



この本の内容は、こんなところだった気がする。間違っていたらすまん。最後に読んだのが4年くらい前で記憶が曖昧だ。


この本と私の話をしよう。書いていたら思い出した。まさに「連想」なんだけど。


この本を最初に読んだのは、確か中学三年生の時だった。担任の先生の本棚に入っていたのだ。


あの先生は、朝に10分間の読書する時間を取ることを徹底していた。あのクラスだけだった。朝の会を潰し、最低限の話だけ伝え、歌も連絡も帰りの会に回していた。多分そこまでして読書の時間、沈黙の時間を作らせたかったのだと思う。あの先生が受け持つクラスは、行事が行われるたび常に、そして絶対的に学年トップで優秀なクラスに構築されていた。まさに先生の手によって。


あの本棚になぜかこの本が入っていて、なぜか私がその本を読んだのだが、多分面白かったんだと思う。難しいことを考えるのがすごいと思っていた私には良かったのだろう。

その後高1か高2に、自分の手でその本を買いもとめた。中学で読んだ時は単行本サイズだったが、文庫本が出ていた。

……あれ、中3の時に既に買ってたのかな? その頃の記憶が曖昧だが、買ったことは事実である。



あの頃に本を読んだはずなのに、私は常に考えごとをしているなぁ、といまふっと考えた。

話は連想に連想を重ねたことも事実。現実を見つめられない現実。


そして、こういうことを言う時は、何か現実逃避したいことがあるんだよなぁ……ゼミの勉強とか。