ゴミが生まれる瞬間を知っているだろうか。
たいそうなことを書いていますが、大したことじゃないです。別に地球の環境問題を書くつもりではございません。
この前電車で、チューペットのカラを手にしたまま、ぼんやり暇そうにしてる大学生を見た。
電車の中で退屈そうに座っていたが、片手を空のチューペットで塞がれていたためか、片手でスマホをいじっていた。プラスチックのゴミの先端は、先ほどまで自分が口をつけていたところになる。それを椅子や手すりにつけるわけにはいかないだろう。少し気を使わなくてはならない。
ゴミ箱があれば即座に捨てているはずだが、電車の上にはゴミ箱が無いので、ゴミを捨てることはできない。
きっとその人は帰りの途中で買って、帰りのどこかでそのチューペットを飲み切ったはずだ。(チューペットって伝わってる? カンカン棒のことだよ。あと、こいつはアイス? ジェラート? それに対して「飲みきる」と言うべきか「食べきる」と言うべきか。 まぁ、なんとなく意味を読んでくださいませ)
飲んでる最中はチューペットとしての価値があったはずなのに、飲み切った瞬間器だけ残り、途端にゴミになる。あれま、どうしよこれ。
僕は大学の授業にコーヒーを持ち込む。眠気を覚まそうとする、健気なワンシーンである。飲んでる時は手元になくてはならない。しかし飲み切ってしまうと、豹変するのだ。机の上を占領してしまう、缶やプラのゴミになる。そうするとなぜか筆箱やノートの場所を考え出して、ゴミがとても邪魔になる。味方だったのに一転、敵軍になるのである。
自分が飲んでいる時は、あくまでも中身のコーヒーに意識が向いていたが、飲みおわると缶だけが残る。意識が缶に向いた時に初めて「おっ、邪魔やんけ」となるのである。
この現象はなんだろうか。よく分からない。よく分からないまま、話を進めよう。
読めない本がある。読んでない本がある。
手に入れたのに読まない本がいくつかある。どこかのタイミングで買うセンサーが働いていたのだが、気付けば買っただけの本がある。2年ぐらい前にはやってた本とか買っちゃうと、もう今になって読む価値無いのでは? という感覚に陥る。
前までは私には積読なんて関係無いと思っていだが。
半年ほど前、ちょっと机の上や棚を整理していたら、発覚してしまった。積読があるということに。知らない本のカバーを手に持った瞬間に「あ! この本読んでない」みたいなひらめきが起こり、探すと4冊ぐらい読んでない本を所有していた。まじかよ、と声がこぼれた。ちょっと萎えた。自分の意図していない自分の行動に対してびっくりである。あー、俺も積読してたんだなー。
すぐさまその本を読んだかといえば、結局その気も起こらず未だになんとなく積まれている。いつか読まれるタイミングが来ると良い。部屋に分厚い「男性不能の歴史」の本があったんだけど、あれマジでいつ読めばいいのか分からない。なんで買ったのかピンときてないけど、買った記憶は思い出している。
買ったものが要らなくなったり、使ってなかったり、それに気づいたり、反省して、またやってたりする。無駄なことをしてしまった気分だ。買わなくても良かったのではというしこりが胸に残る。
まるで、適当に食べて腹が膨れてから「いやこれ食べなくても良かったんじゃね」みたいな、とてもワガママな思考だ。でも、きっとその時の自分は欲しかったものなんだろうなぁ。
こういうことを何度も無意識にやっているのだなぁ、とそんな感想が浮かんで、このエッセイは締めになる。
皆さまも胸に手を当ててみるとわかるかも。
きっとまた僕はなんか要らないものを買ってしまうのだろう。欲しかったのか要らなかったのか、無くなってから分かるから。