一人暮らしが経過して一年と二ヶ月が経過した。
「とくに語るべきこともない一年だった」なんてことはなく、振り返れば、誰かに聞いて欲しい話は一つも二つも出てくる。「誰か」がどのくらいの「だれか」なのかは分からない。
最近思うことは、寂しいということである。
一人暮らしは寂しい。いやー、ほんとに寂しいな、と思っている。
一年目は特に感じなかった。むしろ、実家から出たことで、実家にいたときに纏っていたルールや、それまでの制約を一つずつ外していく楽しさがあった。自由という二文字である。
自由を得ようとすると孤独になる
孤独を埋めようとすると制約がかかる
この話はどこかの誰かが言ってたり、本で書いてあったことである。土岐麻子も歌ってた。
「孤独という名の靴は 履きなれたら どこまでも行ける自由の靴」
自由と孤独という言葉はかなり意味が似ていると思う。
一人暮らしの生活を「孤独」と「自由」でわけるなら、今は「孤独」の気分、という話である。
春になってからよく思う。あ〜! さみし〜〜〜〜!!! 素敵なえちおねはいないかな〜〜〜〜!!(えちおね、というのは私が定期的に語る概念のことである。素敵でかわいらしくてえっちなお姉さんである。ユニコーンや蓬莱の珠の枝と同じ確率で実在する、と言われている)
最近の話、二つ目。
最近、本を読もうとしている。あんまり読めてない。
今週は帰りが遅かったので、飯食って風呂入ってウマ娘やってたから本を読む時間がなかった。
この土日は、ウマ娘でイベントの育成回したり、zoomで人と話したり、スマブラでスネーク触ったりテリー・ボガード使ったり、ゲーム友達のDiscordに入って画面共有でウマ娘したり、ウマ娘で新衣装エアグルーヴを引いたりしていた。
だから本を読んでなかったわけである。あー、忙しーね!
というのは、本当なのであるが、本を読めてない理由は、別にあるのかな、と思っている。
それは、ちゃんと孤独になれてないことかな、と。
本を読む時は一人である。一人で、自分の安全と安心がある程度確保されていて、その時に読めるのかな、と。本を読むことが現実逃避であったとしても、流石に安全性は確保されていると思う。
最近の自分は、オンラインで誰かと繋がろうとゲーム鯖に入り浸っている。寂しいから。
そして、誰かと話すことで、それなりに孤独を紛れさせてもいるわけだけど、同時にちゃんと孤独に向き合えてないのかもしれない。
本を読むためには、もう少し孤独と向き合う方がいいのか、抱え込む方がいいのか、あるいはどちらでもないのか。分からない。
んー、と適当に言葉を並べてみたが、本を読んでないのは本を読んでないというだけかもしれない。
というか、黙読は、音読よりも文化としては新しいと思うので、そもそも読書のはじまりは、みんなで読むものかもしれない。
それともう一つ、話が逸れる。
本を読んでいないのに、本を読んでいない自分の姿勢が好きではない、本を読むことにこだわるというのは心の理屈がねじれている気もする。
本は読んでおいた方がいい、と信仰がある。
本当は仕事に関係する学びをしなくてはならないけど、娯楽の本でもいい。
そう考えるのはなぜか、過去の話をしよう。
学生の頃、勉強せずにゲームすると「勉強してない」ということがよくわかるけど、本を読んでいると「勉強していない」とは思わないのである。これは認識がバグっているのである。
勉強してなくても、本を読んでいれば、実質勉強している。親にもあんまり怒られないし、言い訳としても使える。
「本なんか読んでないで勉強しなさい」というハイコンテクストな叱り方をする親がいるかもしれないが、うちはそんなでもなかった気がする。それにかまけてラノベを読んでいた訳である。学生の頃はソードアート・オンラインやキノの旅とか読んでた。
だから今でも、勉強しなきゃな〜、とダラダラしながら勉強をせず娯楽の本を読んで、俺の心の茶を濁している。
本を読むために喫茶店に来たわけだが、今こうしてはてなブログを書いている。立派な逃避行為である。
今も本を読もうとしているが、読もうとする前に雑念が湧いてくる。あ、食料品買わなきゃ、掃除機調子悪いし買い替えたいな、今日は銭湯に行きたいな、コンビニ行ってあれ買わなきゃな〜、と次から次へとそれらがそれなりの根拠を持って頭の中から湧いてきている。
さっきまでスマブラしてた時は何も考えてなかったはずなんだがな〜。ぴえん