この文章は私の思考をまとめるために書いているものになるので、読み手の皆さんには読みにくいものになるであろう。先に謝罪をしておく。
國分功一郎さんの「中動態の世界」を読んでいる途中である。現在まだ第5章であり、完結していない。そのため、不勉強な記述になることもここに言い訳として書き記す。
「就活のためのリクルートスーツを買いました」
これは書いている今日の私である。20過ぎの大学生ともなれば就活のためにリクルートスーツを買うものなのだろう。みんなきっとそう思っている、だから私もそう思うし、そう思うので買いに行った。
私の体格に合わせて、Y4ですね、とかなんとか言われた。就活なので色は決まっているし、体格的にもスーツはだいたい決められている。
私は自分の意思でスーツを買っているようだが、自分の意思と言えるほどしっかりと決めたことはあるだろうか? 体格と用途でだいたい決められている儀式ではないか。
ネクタイは二種類から選択した、ふたつ似ているようなネクタイが並べられていた。正直どっちでもよかったが、なんとなく目についた手前のほうを選択した。
Life is a series of a choice. 人生は選択の連続である
シェイクスピアが言ったらしい。このセイフは何回も聞いたことある。たぶんCMとかで流れていたことだろう。ちなみにシェイクスピアを読んだことはないし、このセリフがどこで出てくるのかも知らない。
このフレーズを調べたらネットのブログ記事が見つかった。少し読んだ。両方とも、このフレーズの文学的な解説や物語の解釈を教えてくれるものではなかった。
「自分の理想の選択に向かってますか?」「私は会社員の選択肢を辞めて副業をはじめて、うんぬん……」 「良い選択……」「その場しのぎの選択はよくない……」
違う。聞きたいのはそんなことじゃない。
問題は「その選択は意思と同じか」と「その選択を選んだ本人に責任はあるか」の二つだと思う。
私は私の意思で行動しているのだろうか
「就活のためにリクルートスーツを買いに行きました」
こう文章にすると、まるで私の意思で「リクルートスーツが欲しい!!」みたいな印象を受ける。読み手ならそう考えるだろう。
しかし、私はリクルートスーツなぞ欲しいわけではないし、スーツもネクタイの柄とか興味なんてない。
「私はスーツを買う」のではなく「私においてスーツを買うことが実現されている」という表現になるのだろうか。
せいぜい身体にあったサイズだ。本当に欲しいと思うスーツがあるなら、サイズが全然違っても買うことが可能ではないか。リクルートスーツが欲しいなら、もっと具体的に行動をするのではないか。
私は腑抜けた顔をして、されるがままに道具を選んだ。そう「選択」したのである。選択というのは、限られている。
選択というのは過去の帰結である。
(『中動態の世界』第五章 アリストテレスのプロアイレシスの説明 アレントの解釈について説明しているときに出てきた文章)
未来を現在の帰結にしてしまうと、意思が与えられる場所ない……?(ちなみにここらへんは私の分からんポイントである)プロアイレシスは理性と欲望の媒介として、うまいこと選択する能力と読まれているそう……?
”意思とは、何らかの行為を自らの意思によって開始したと想定されるとき、その人はその行為の責任を問われるのである”(p130より引用)
非常に日常的な使用例としての意思。
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こんなことをぬう、と帰りの車の中で考えていた時に、もう一つひらめいた。
そうか、これは「進路」のあの気持ちだ。(いろんなことや感情を一気に思い出したので文章が長くなります。)
高校受験の時、周りの大人に「○○高校いきたいんでしょ! もっと勉強しないと!」だとか「○○のラインならあと何点必要だとか」だとか。
そして、私は勉強が強いられて、結構嫌だった。進学塾の能開に入ったけど、二か月でやめた。嫌すぎて、ずっと泣いてた。
あれは「私は○○高校へ行きたいという強い意志を持っている」前提で、話で進んでいた。嫌だったんだ。分かった。
俺は別につよい気持ちなんてなかった。「志望校」の志望という字がいけない。まるですごく望んでいるみたいじゃないか。学生がいないと高校の体裁が保てないのは、高校自身の問題だろ? むしろ高校が学生を志望しているはずだ。
「勉強すれば、選択肢が増える」って言われたこともあったけど「勉強して賢くなったら、賢いやつ用の選択しか残されてない」 それこそ、よほどの意思がなければ、下手に頭のいい奴が工業や商業の選択をすることもない。
あの時の私に差し出されていた選択肢は「頭のいい公立の高校」に行くか「ちょっと頭のいい公立高校」「ちょっと頭のいい私立」ぐらいしかなかったのだ。
あの時の違和感だ。受験は私にとって意思ではない。「○○か△△」の選択でしかない。だってそれしかないんだもん。確かにほかに高校はある。だが、俺にとってみれば選択肢なんてあってないようなものだ。だってそれしかないんだもん。
責任が嫌だった。「受からなかったの/志望校を下げたは、私の勉強が足りなかったから」と自己責任になるのがめちゃくちゃ嫌だった。いや勉強不足なんだけど。
選択なんだ、私にとっての受験は意思じゃない。しかし、周りは意思とみなす。周りに意思とみなされると責任が発生する。
落ちたのも受かったのも当人の責任だ。だから勉強しろと怒られる。
おーん。悲しみだな。
少しだけ、意思と責任と選択について理解が深まった気がする。
非常に私のプライベートな殴り書きになってしまったような気がする。
なんだかんだ言ったって、意思と責任について考えても、意思や選択から逃げれられるわけではない。しかし、そこがまた面白いところなのである。普段はYouTubeばかり見ているが、たまには頭がいいフリもしてみるのである。というか、ちゃんと読んでないので、不勉強極まりないんでござい。すまぬ。
そのうち「自分で選んだ」気になっている「リクルートスーツ」を着て「自分が志望している」企業の面接に行くのである。自分の人生なんだから、との言葉を受けて。
(選択だったものが「自分の意思として感じる能力」があるらしい)
最後に
この記事で大いに参考になったり、引用したりしたこの本のリンクを貼ります。
小林秀雄賞を取った、素晴らしい本です。だいたい誰かかしこい人の名前の付いた賞はすげーので、たぶんスゲー賞なんだと思うよ。
(『いんよう!』というwebラジオ聞いた話ですが、この本の種類は医学書なのだそうです。「医学書専門の出版社が、医学書のシリーズとして、哲学の先生を引っ張て来て書かせたとんでもない本」らしいです。)
中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
- 作者: 國分功一郎
- 出版社/メーカー: 医学書院
- 発売日: 2017/03/27
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