自分が50代だったら、と思うことがある。理由は人生を語るに適切そうな年齢だから。自分でもすごく子供らしい理由に思える。
エッセイを書いたり、友達にやたらと語ったり、とにかくおしゃべりな性格の私なんである。本当にちゃんと話を聞いてくれる友人達に申し訳なくなってきた。嫌なら黙って私をリムって欲しい。
脱線したけど、そんな私は常に思うところがある。それは説得力がない事。
どんなに分かったつもりで話していても、他人から見れば、私など20代のひょろっと男子。「この世界は間違っている」とか言っても、あんまり響かないと思う。「なんだてめえ、社会のことなんも知らずにぬくぬくと育った若造に何が分かるねん」って怒られそう。私もそんなやつみたら同じこと思うけど。
言葉だけが正しさを宿して、その話の流れを続けようと口や手は動くけど、どこからか自分の語れる範囲を超えている感覚になる。これ以上の話は妄想の世界で今事実として語れるものじゃない。こういう感覚は喋ったあと1人で帰ってる時に「あー、あの時上から喋りすぎたかな」とむくむくと出てきて、少し悩むことになる。
やはり人生の経験がそこそこ積まれており、厚みがあるお話ができる年齢で、語ってみたいと思う。そうしたらみんな話をありがたく聞いてくれそうだ。
これに似た感情は「胸板が厚くなりたい」もしくは「小太りで低い声を出したい」である。高校や中学の怖い先生みたいなイメージである。迫力を出して意味があるのか分からないが、出せる迫力は出してみたい。
常に自分の口調や喋りたいことが上から目線になってしまうくせがあるからか、それに見合った外見になりたいと思ってしまう。
反対に話す内容を適正にするという方向もあるが、それが出来ればこんな思いはしない。ここは私自身の怠慢だが、それには目をつぶって欲しい。あと人の望む言葉を選ぶことがかなり難しい。言って欲しい言葉はなんとなく分かっているけど、そんな好青年に振る舞えないし、相手に言わされていることに対して、勝手に抵抗感が出てくる。結局私が言いたいことをまとまりもなく矢継ぎ早に語る。
私のような20代が言うべきことは、社会の不満とか、世界に見限りをつけることじゃなくて、もっとシンプルにおっぱい揉みたいとかおちんぎん欲しいとか、そんなのだろうか。
20代の若者がおっぱい言ってたら、下品だけど、なんとなく自然な感じがするんだよなぁ。50代の部長クラスのおじさんが言ってたら「お? この人お疲れかな?」みたいな感じになる。はっきり言ってやばそう。
そう、まさに「いい歳こいて何やってんだか」である。私は若いうちからいい歳をこいた発言をしてみたい。
私は今、50代になって色々語ってみたいと思ってるけど、私が50代になった時に「20歳になってセックスしたい」とか言ってるかもしれない。 これはもうただのワガママですね。でも、いつかは50代を迎えるのだと、遠い出来事のように感じている。
都合よくいきたいもんですね。
誕生日まであと3日。